現在の叡山電鉄のうち、叡山線は日本ではじめて水力発電(琵琶湖疎水)により電気を供給した京都電燈株式会社の電鉄部門として、大正14年9月27日に叡山平坦線、出町柳〜八瀬=八瀬比叡山口間(5.6km)の営業を開始しました。
鞍馬線は昭和3年12月1日、京都電燈と京阪電気鉄道の出資による鞍馬電気鉄道株式会社として、山端(やまばな)=宝ヶ池〜鞍馬間(8.8km)で営業を開始しました。当初は独立した路線でしたが、翌年には直通運転が開始されています。なお京阪はこの事業に熱心であった役員の退任によりすぐに手を引き、事実上京都電燈の子会社化されています。
なお鞍馬電鉄の社紋は鞍馬山ゆかりの楓の葉をかたどったもので、京福系列の京都バスに受け継がれています。
この当時の車両は京都電燈がデナ1型6両とデナ11型4両、デナ21型4両の14両、鞍馬電鉄がデナ21型6両の合計20両でした。デナ1型と11型は叡山線、デナ21型は10両共通で出町柳から鞍馬線直通に使われていました。
また叡山線全線と鞍馬線の市原までが複線でした。
昭和16年配電統制令が敷かれ発送電部門と配電部門は事実上の国営となり、翌年の昭和17年、残った電鉄部門を中心として京福電気鉄道株式会社が発足しました。
その後昭和19年に、叡山本線「山端(宝ヶ池)〜八瀬(八瀬比叡山口)」、鞍馬線「山端(宝ヶ池)〜市原」が資材供出のため単線化されました。
叡山本線は昭和26年、鞍馬線の「宝ヶ池〜岩倉」は昭和33年に複線復帰しましたが、「岩倉〜二軒茶屋」が複線化復帰したのは平成2年、「二軒茶屋〜市原」は未だに単線となっています。
車両は福井支社が戦災にあったことから、デナ11型4両が転出しましたが、残り16両は健在でした。
戦争後は路線が山添であったことや、京都の街が戦災にあわなかったことから郊外のこの地域の発展はなかなか進みませんでした。
それでも昭和24〜30年には元田中を経由して宝ケ池競輪の開催日に市電との直通運転を行い、昭和28年には鴨東線開業を見越した大型車デオ200型4両や昭和34年にはカルダン駆動を用いた当時の最新鋭電車とも言えるデオ300型2両を登場させています。
また昭和39年には木造車であったデナ1型と事故で失われたデナ21型2両の代替として、阪神電車831型10両がデナ500型として入線し、現在と同じ営業車24両となりました。
なおこの時の縁で阪神系の車両会社「武庫川車両」(平成14年解散)とのおつきあいが始まり、現在当線の車両は全て武庫川車両の製造となっています。
しかしこのころから自家用車や市内と直通するバスに押され、乗客は減り始めます。市電による京都市内との連絡が次々と断たれ(昭和53年全廃)乗客数は半分以下にまで落ち込みます。
開業当初から計画されていた鴨東線=京阪鴨東線の計画が進まない中、それでも鴨東線開業を見越して「廃止」を免れてきた同線ですが、その間少しでも経費節減と、お客をつなぎ止める為の努力は続きました。
いちばん目立ったのは、出町柳〜宝ヶ池の8本/時の運転を死守し、近郊区間での「待たずに乗れる」を印象付けたことでした。また鞍馬口においても30分毎より減らすことはしませんでした。
経費削減では昭和53年11月日本で最後まで残ったポール集電をパンタグラフ集電に切り替え、2両編成でも車掌が1人で済むようになりました。
また昭和58年12月1日にはプログラム式自動列車運行装置(PTC)を設置し、修学院駅指令所にて一括制御するようになり、運行要員の削減が行われました。線路保守の省力化では、一部の区間で木の枕木からRCコンクリートのバイ・ブロック式枕木への取替えがおこなわれました。これは初期費用はかかるものの保守間隔を長くすることができるためです。
また列車無線の取り付けも行われ、保安度の向上と異常時には迅速な対応がとれるようになりました。昭和62・63年にはATSを設置して、ワンマン運転もはじまりました。
しかしそんな中でも赤字は減らず、このままでは京福電鉄本体の存続にも影響するとして、叡電は昭和61年4月1日に叡山電鉄として独立しました。これにより補助金が受けやすくなり、また京阪資本の直接投入もしやすくなりました。
そしてとうとう平成元年10月、念願の鴨東線(出町柳〜三条間)が京阪の手によるものの開通しました。乗客は増え、業績は持ち直して一時は土地売却による利益などもあり黒字を計上するまでになりました。しかし鴨東線の開業人気が去り、地下鉄の国際会館前開業などもあって、乗客はまた減少傾向にあります。
平成6年11月27日、鞍馬電鉄ができた時に誕生し60年以上も現役で走り続けたデナ21形(21・22号)のサヨナラ運転が行われました。今でも鞍馬駅に先頭部が保存されています。
また平成7年には地球環境を訴えた塗装の「エコモーション号」を登場させ、さらに平成9年「電車に乗る楽しみ」という全く新しいコンセプトをもとにパノラミック電車「きらら」を登場させ、叡電自体に魅力をつける工夫もなされています。なおこの車両の増備により、必要な時期での冷房化100%を達成しています
しかし平成14年3月、長年したしまれてきた八瀬遊園(経営は京福)が閉園し、昭和40年に「八瀬」から改名された「八瀬遊園」駅は「八瀬比叡山口」と改められました。同時に市原付近の住宅増加に伴い同駅までの列車が増えましたが、複線の復活にはいたっていません。
また逆に鴨東線開業以来日中はほとんど2連で運転されてきた鞍馬行の電車が一時期一部単行ワンマンになったりもしました。
そんな中、福井での事故を始めとした京福電鉄の業績悪化に伴い、叡山電鉄は京阪電鉄の100%出資会社となりました。また長年同線の車両を作り続けてきた「武庫川車両」の解散もありました。
平成15年になると7月に「エコモーション号」を沿線の風景イラストを纏った「こもれび号」に変身させましたが、この車両からさらなる経費削減策として2両編成のワンマン化の準備が始まりました。同時にスルッと関西に対応したカードリーダーも取り付けられています。
2両ワンマンの運行は平成16年1月に始まり、スルッと関西への対応も3月に完了して使用開始されています。
いろいろと社会情勢の変化はありますが、叡電はこれからも変わりなく、京都の北山の裾を走り続けるでしょう。(おわり)